喜佐谷から

 吉野山奥千本


      平成24年4月24日 快晴

  桜の開花が幾分遅れた今年の吉野山、しかし開花後、気温が急速に上がり、奥千本の見頃はほぼ平年並みになったようだ。今年も吉野宮滝万葉の道を辿って、途中にある高滝や金峯神社の桜などを見ながら吉野山の頂上、青根ヶ峯まで登り、西行庵に下ることにした。
【このルートについては、2年前の平成22年4月24日に歩いた内容とほぼ同じなので、こちらを参考に】


喜佐谷集落から吉野山へ

椿の花が落ちた古道

吉野宮滝万葉の道

  高滝は、吉野宮滝万葉の道の喜佐谷集落最奥から5分ほどの所にある。高滝は象(きさ)の小川の幾つかの滝の一つで、吉野町が設置した案内板に次の説明文が記されている。


吉野宮滝万葉の道・高滝

  吉野山と喜佐谷、宮滝を結ぶこの道は、今は吉野宮滝万葉の道と呼ばれ、万葉や古代史に心寄せる人々に親しまれていますが、その昔は、西吉野や天川、黒滝地方の人たちが伊勢参宮に往還する信仰の道でもありました。杉木立の谷間を縫うようにして馳せ下って来た象の小川がここにきて、落差約十mの「高滝」となって清冽な飛沫をあげています。
  江戸時代には、吉野巡りの旅人がこの辺りで一息いれたらしく、明和9年(1772年)3月9日(今の暦で4月11日)、伊勢松坂の国学者本居宣長もここにさしかかって「喜佐谷村を過ぎて山路にかかる。少し上りて高滝といふ滝あり。よろしき程の滝なるを、ひと続きにはあらで次々に刻まれ落ちるさま、またいとおもしろし。象の小川といふはこの滝の流れにて今過ぎこし道よりかの桜木の宮の前をへて、大川(吉野川)に落つる川なり」と菅笠日記に書きとどめています。
  幕末の浮世絵師葛飾北斎が、当時の著名な滝を描いた「諸国流れめぐり」の中に、「和州吉野・義経馬洗いの滝」あり、その絵の雰囲気からこの高滝を描いたと考えられます。
 滝の頭の傍らにある祠には地蔵さんが祭られていて、毎年8月24日にはささやかながら地蔵盆の例祭が行われます。また毎月24日には、心優しい喜佐谷の村人によって季節の花が供えられて、山で働く人たちや道行く旅人の無事を見守っています。・・・   (吉野町観光課)・・・
 

高滝分岐の道標

象川と高滝

遊歩道で滝壺へ

  吉野宮滝万葉の道は、吉野山中千本にある如意輪寺から上千本の花やぐら展望台に通じるハイキング道に合流する。中 ・上千本の桜は既にほとんどが散り、葉桜へと変わりつつある。上千本に鎮座する水分(みくまり)神社は、最近、豊臣秀頼の創建とされる本殿(重要文化財)の屋根の桧皮の葺き替えが終わり、観光客も大勢訪れていた。境内の枝垂れ桜が満開であった。


 
                      すでに花が終わった上千本の桜(展望台から)


吉野水分(みくまり)神社

境内の枝垂れ桜

  吉野水分神社から細い車道をゆっくりと歩くと、程なく左手に高城山への分岐に着く。分岐にはトイレが設置され、その横から急な登り坂のハイキング道が上に延びている。この辺りは奥千本の入り口にあたり、周囲の桜はほぼ満開である。ここまで登ってくるのは、ほとんどがハイカーだ。
  山頂には立派な展望所が建っていて、咲き誇る白山桜越しに龍門岳を主峰とする龍門山塊が望める。


高城山展望所

  標高702mのこの山を高城山またはつつじが城と呼んでいます。高城山というのは、万葉集に、吉野の宮(今の宮滝)に遊んだ宮廷の歌人たちが、吉野山を望んで詠んだ歌が記されています。
 神さぶる 磐根(いわね)こごしきみ吉野の 水分山(みくまりやま)を見ればかなしも
元弘三年(1333年)、後醍醐天皇の皇子大塔宮護良親王が吉野城に立てこもり攻め寄せる北条幕府の大軍を相手に激しい戦いをくり広げましたが、そのときの奥の詰城になったところが、つつじが城といわれているこの山です。
     (吉野町観光課の案内板より)
  

高城山への登り

高城山山頂に建つ展望所

展望所内部


吉野山奥千本

  吉野山の桜は近鉄吉野線の終着駅吉野駅から上に向かって下千本、中千本、上千本、奥千本と順に咲いていく。例年4月初めに下千本が咲き出し、10日ごろに中千本、12日ごろには奥千本を除きほぼ全山満開となる。
  奥千本の桜は、標高が高く且つ上千本と少し距離が離れているため、やや遅く咲く。満開の桜で埋まる吉野山の写真としては、中千本と上千本の風景がよく紹介されている。特に上千本の展望台からは、馬の背のような地形の町並みに満開の桜が埋める写真が撮影できる。
  奥千本本の桜は、高城山付近や西行庵辺りに多く植えられているが、その本数は、下千本〜上千本に比べると非常に少ない。吉野駅やバスの駐車場から遠距離のため、観光客も比較的少なく、静かに桜散策ができるが、最近はハイカーが増えてきて以前より賑やかになってきた印象だ。
  見所と言えば、高城山展望所、金峰神社、西行庵。吉野山地区最高峰で神南備の青根ヶ峰(標高858m)付近では、桜の木はほとんど見られない。


義経の隠れ塔

金峯神社

金峯神社から西行庵へ


  高城山展望所から南方向に下ると水分神社からの車道に合流し、程なく金峯(きんぷ)神社の鳥居の前に出る。ここは変形の四差路になっていて、中千本から通じるバスの終点にもなっている。
  鳥居を潜って真っ直ぐ参道を登ると、金峯神社の本殿前に着く。金峯神社は吉野山の地主神「金山毘古命(かなやまひこのみこと)」を祭り、平成16年7月にユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録された。旧式内大社。
  金峯というのは、吉野山から大峯山(山上ヶ岳)にかけての山並みの総称で、古来この山域に黄金の鉱脈があると信じられた。吉野山に桜が植えられたのはこの鉱脈を密かに隠すためとの説がある。一般的には役の行者が、大峯山で蔵王権現を感得し、桜の木でその仏像を刻んだことから、桜が神木とされ、以降、多くの信者の寄進によって植えられて今の桜の名所になったと説明されている。・・・が、この説も後世に作られた可能性があり本当のことは分からない。
 本殿の前を左手に下ると義経の隠れ塔がある。大峯修行場の一つだが、文治元年(1185年)、吉野に逃れて来た源義経が、この塔に隠れ追っ手から逃れるため屋根を蹴破って外に逃げたと伝えられ、「蹴抜けの塔」とも言われている。
  塔の扉が閉められた真っ暗の中で、『吉野なる 深山の奥のかくれ塔 本来空のすみかなりけり』と唱えながら塔内をめぐり、不意の耳を劈く鐘の音で煩悩を払う秘行は、初めて大峯奥駆修行に参加する修行僧に行われるとのこと。


宝塔院跡

大峯奥駆道に立つ道標


  金峯神社本殿の右手から、大峯山(山上ヶ岳)へ通じる大峯奥駆道が延びている。急な石畳は雨後滑りやすく慎重に登る。登り切った所は左折れ(山上ヶ岳へ)と直進(西行庵・鵬閣寺へ)の三叉路になっているが、どちらを選択しても西行庵に通じている。
  今回は、先に青根ヶ峰へ登るため左手に折れ、宝塔院跡、女人結界碑を通り大峯奥駆道分岐から山頂へ辿る。大峯奥駆道分岐には「この上 青根ヶ峰」と刻まれた石塔が立ち、緩い階段を詰めるとすぐに山頂に着く。

 青根ヶ峰は吉野山地区の最高峰の山(標高858m)で古来より水分山(みくまりやま)とも呼ばれた神南備である。音無川、喜佐谷川、象の小川、秋野川の4つの川の分水嶺である。吉野山から大峯山への大峯奥駆道(世界遺産「紀伊半島の霊場と参詣道」)の途中にあり、すぐ手前に「従是女人結界」の碑が残されている。山頂には三等三角点が埋まっているが、20年ほど前から、山頂一帯の木々が成長し、今は展望がほとんど利かない。万葉集には、「み吉野の 青根が峰の 苔蓆(こけむしろ) 誰か織りけむ 経緯(たてぬき)無しに」と詠われている。


かつての女人結界

大峯奥駆道の分岐

青根ヶ峰山頂

  青根ヶ峰を辞し、元の道を戻る。宝塔院跡で左手の西行庵への道を下る。青根ヶ峰からこの辺りにかけては桜の木はほとんど見られない。杉樹が伐採された広場から桜に覆われた西行庵が見下ろす。昔と比べて、随分と桜の木が増えた印象だ。苔清水では、ハイカーが湧き水を汲んでいる。
 さすがに西行庵まで下りて来ると、観光客やハイカーが大勢見かけられる。吉野山とりわけ山深い奥千本は都会の公園に植えられている染井吉野ではなく、可憐な山桜だけが似合う所である。


西行庵
 
   鎌倉時代の初めころ(約800年前)、西行法師が俗界をさけて、この地に侘び住まいをした所と伝えています。西行はもと、京の皇居を守る武士でしたが、世をはかなんで出家し、月と花とをこよなく愛する歌人となり、吉野山で詠んだといわれる西行の歌に、
 「とくとくと落つる岩間の苔清水 汲みほすまでもなきすみかかな」 「吉野山去年の枝折の道かへて まだ見ぬ方の花をたずねむ」 「吉野山花のさかりは限りなし 青葉の奥もなおさかりにて」 「吉野山梢の花を見し日より 心は身にもそはずなりにき」。
   この歌に詠まれた「苔清水」はこの右手奥にあり、いまなおとくとくと清水が湧き出ています。旅に生き旅に死んだ俳人松尾芭蕉も、西行の歌心を慕って二度にわたり吉野を訪れ、この地で、「露とくとく試(こころみ)に浮世すずがばや」 と詠んでいます。 (吉野町観光課の案内板より)
 


宝塔院跡の西行庵への道標

西行庵に咲く桜

西行庵に下る

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