高  岳
  (標高610m)



                         登山日 平成20年1月26日(土) 曇り



  奈良県のほぼ中央部、国道309号の広橋峠から南に延びる尾根の中間に高岳はある。
これまで、この高岳に2回登っているが、まだ山歩きの記録を取っていない20年以上前の頃である。
   高岳は、今は地元でも忘れ去られたような山で、登る人もほとんどいない。しかし、何百年前の昔から地元の領地争いの舞台として因縁のある山である。

 下市町史から抜粋すると
  「石堂谷(無住地区)の領有をめぐって奥郷(丹生村)と口郷(梨子堂、栃本、椎原村)との間に争いが絶えなかったが、ある年、石堂谷の入会を決めるのにもめ抜いた挙句、代表選手を出して相撲をとらせ、勝った方の所有にしようじゃないかということになり、丹生側から長谷村の谷口清次(せいじ)という身の丈六尺五寸もある力自慢が、下市側から梨子堂村の村上文左衛門が選ばれた。文左衛門は下市へ相撲をとりに行った時、矢来の青竹をしごいてふんどし代わりにしたので青竹文左衛門と異名を取った程の豪力無双の所有者だった。
  双方の物凄い声援怒号のうちに石堂谷の所有権をかけた大相撲が始まり、双方頑張ってなかなか勝負がつかなかったが、清次は文左衛門に体を高々と差し上げられ谷座へ投げ飛ばされて、清次は亡くなった。今もこの谷を清次の谷と言われている。高岳頂上には、清次の墓が現存している。」と記載があり。

  石堂谷は、明治32年12月に当時の奈良県吉野郡の恩田郡長の仲裁で下市町の所有に決まったとのことだが、その長い領有争いの歴史が、高岳への登山道の途中に立っている石碑に刻まれている。

  高岳へは展望の良い広橋峠の西方に民家が広がる峯出集落(写真:左上)から取り付く。以前に歩いた時は、尾根道の周囲の植林も手入れされて歩き易かったが、久しぶりに歩いた山域は、倒木が道を塞ぎ、周囲も手がほとんど入っていない荒れた山になっている。しばらく進むと尾根筋の途中から以前にはなかった林道が右手から延びてきている。

 徐々に道は細くなり、倒れた木々が尾根道を塞いで進めなくなった。幸い林道がすぐ右足下に近づいてきたので、急な斜面を下り、林道を歩くことにした。しばらく林道を詰め、林道が切れた所から、見覚えのある尾根道を高岳の方へ歩く。

 道の左側に、領有争いの歴史を刻んだ石碑がひっそりと立っている。それは以前のままであった。


   広橋峠から1時間10分で谷地区への分岐に着いた。そのまま直進すると、ほどなく小さなピークの高岳を前方に確認。山頂に辿る道を探すが確認できず、倒木と茨のある斜面を強引に登る。
    程なく山頂に辿り付く。相撲の土俵のような丸い平らな山頂の真ん中に、ポツンと石碑が一つ立っている。清次の墓である。

 寂しい山頂である。地図を広げて周囲の風景を確認する。展望はあまり利かないが、木々の合間から吉野三山の一座銀峰山と竜王山が望める。南方に三角錐の形をした城山が見える。
ザックを降ろし休憩を取る。時間が止まったような感覚になる。


         
 山頂に辿り着くと何より石碑(墓石)が目に飛び込んでくる。相撲で谷に投げ飛ばされて亡くなった谷口清次の墓である


  帰りは先ほどの谷地区に下りる分岐まで戻り、踏み固められた山道を下る。右側に、高岳と高岳から南に延びる尾根に城山が望める。
地道から舗装道に変わると、谷村の八幡神社に下りる。前方に存在感のある山が高く聳えている。吉野三山の櫃ヶ岳である。なかなか堂々とした山容である。なおも下ると、ようやく谷の集落が見えてきた。すでに1月の下旬というのにまだたくさんの実を付けた柿の木が一本。谷の集落はのどかな山村である。


          
櫃ヶ岳を正面に望みながら下る                谷の集落(吉野郡下市町)



 行 程(休憩時間除く)

   広橋峠(峯出地区)⇒<70分>⇒谷分岐⇒<7分>⇒高岳⇒<5分>⇒谷分岐⇒<35分>⇒谷の集落


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